再開その3

 僕の悪い癖として、向けられた言葉をその場では丸々真に受けてしまうというところがある。特に悪いのは、時間が経ってからその言葉の本意について疑念を抱いてしまう点だ。受けた瞬間はあまりに素直に受け取ってしまうから、じわりと募り募ってゆく疑心暗鬼の、そのギャップの大きさに自ら混乱してしまい、他人も自分も信じられなくなる。その渦中にいることを自覚した折には、毎度毎度悲しみを覚えずにはいられない。もっとスッキリとした気持ちで生きていきたいものだが…

 しかし単純に真に受けるだけなら、悪いものとも言い切れないと思う。疑念の概念を覚える前、幼少の記憶のひとつに、特に鮮烈なものがある。それは幼稚園に入るか入らないかの頃、母とともに児童館に行ったときのことだった。

 児童館には、ままごとやおもちゃで遊ぶ部屋のほか、数十人が一緒に遊べる中規模のホールがあり、そこで体操教室やドミノ倒し大会など、子どものための催しがよく行われていた。通路に面したホールの入り口には両開きの大きなドアがあるが大抵は開け放されており、いつもなら気兼ねなく飛び入り参加ができた。

 しかしその日は違っていた。入り口のドアはピッタリと閉められており、通路は開口部を失ってどんより暗くなっている。一体なんだろうと僕は少し狼狽した。ドアの前にいた、エプロンをした女の職員が母と僕に気がつき、こう呼びかけた。

「今日はアニメ映画をやっていますよ。少し大人向きかもしれないけれどね」

ここで言われた「大人向き」とはもちろん文字通りではなく、僕と比較して対象年齢層が少々上という意味であり、つまりは小学生向けくらいの映画だったのではないかと予想する。しかし「大人向き」というキーワードを真に受けた僕は強い拒否反応を引き起こし、入場を勧める母や職員に従わず、その映画を見ようとはしなかった。今もある強情ぶりはその頃からあったようで、僕は通路での立ちんぼを決め込んだ。

 困り顔の母たちを尻目に立ちすくしていると、ホールから不思議な音が聞こえてきた。それは中年くらいの男が歌う、アカペラの音楽であった。流石にメロディ一音一音の詳細は思い出されないが、物悲しい感じのする、それでいて少し笑みを帯びた旋律であったことを覚えている。映像そのものを見ていないので全く事実無根な話だが、独房か取り調べ室のような薄暗い小部屋の中で、薄汚れた痩せ型の中年男がひとり、うな垂れて座り込み歌っている情景が、僕の頭にこの時はっきり刻まれた。未だ他の情景に差し替えようがないほど、強烈な印象だった。

 その後立ちんぼに疲れた僕は、誰もいない部屋で母と二人、ままごとやおもちゃ遊びを少しした。ホールから大勢の人が出てきた記憶がないので、映画が終わる前にさっさと帰ったようである。

 見なかった映像と、聞こえた音楽と、浮かんだ情景。「大人向き」の言葉をきっかけに、この3つがしっかり紐づいて、今の今まで鮮明に記憶されている。言葉を真に受けたことで得られたこれらの記憶が、きっとこれからも褪せずに残ることだろう。映画を見ていたら存在し得なかったこれらの鮮烈なイメージの断片が、僕には尊いものに思えてならないのである。

 

  

再開その2

 何年か前、疲れて帰った道すがら、いつも使っていた地下鉄の駅で気がついた。

 その駅のホームは床が白いタイル張りだった。タイルは艶消しになっていて、無数の小さなレキでできていた。レキは大方色が揃っていて、どれかが目立つという事はなく、しかしそれぞれが遠目でも判別できる程度の淡さであった。

 電車を待つ間、ボーッと立ちながら、疲れた目でそのレキのひとつを何となく見つめていた。見つめていると、レキの淡い輪郭が気になり始めてきた。頭は変わらず疲れているのだが、そこに意識がダンダンと集中してくる。しかし輪郭はその淡さゆえ、どんなに凝視してもくっきりとはしてこず、そこへの意識の強さだけが増してくるばかりである。もはや僕は、ホームの雑踏の中の人でなく、床と自分だけの世界で固まっている人になってしまっていた。

 レキの凝視を続けつつ、しかし飽きっぽい性分からか、周囲のタイルの状況にも気が散ってきた。そして気がついた。視界の端で、タイルごとの区切りの線が、消えたり、また現れたりしている!驚いて視線をそちらに向けると、おかしい、普段通りのタイルの区切りである。試しにもう一度レキを見つめながら周囲に気を向けてみる、と、やはりチラチラ消えたり現れたり。そしてさらにこれを続けていると、やがて区切りは完全に消え去り、面一の、微かな濃淡のついた白い平面が、どこまでも拡がっていった…

 視線を移す。区切りが現れる。

 当然である。硬い石材でできた固体の床がユラユラ揺らいでしまっては、ホームは役目を果たせない。顔を上げると周りはいつもの通り、電車を待つ人たちが列を作ってスマホを眺めていた。たった一人中年の小太りのオバサンが、僕に向けていた視線をフッと逸らした。おかしな様子の奴がいると思っていたのだろう。僕は急に目が冴えてきて、ちょうどよく滑り込んできた電車に目を向けた。

 以来、この地下駅の下りホームに立つと、レキをひとつ選んで、タイルの区切りをチラチラさせてみている。人にバレない、ほんのわずかな時間だけ。

 

再開その1

 年末年始は何かと気持ちが焦ってしまって、良い言い方をすればそれは何かを始められたり再開できたりということなのだけれど、大体においてそのモチベーションを早々に切らしがちで、そしてまた巡ってくる年の暮れ、僕はまた頭を抱える。

 こんなことを何度も何度も繰り返し、27歳という年齢は主観で胸張って「自分は若い!」と思えない、焦りにはますます拍車がかかり、ひとまず思い出した、一度ですっぽかしたこのブログをまた書いてみようと思った次第。

 …しかし今回もまたこの記事で止まってしまったら。本当に自分は何をしているのか、何をしたいのか…また一つ情け無さを噛みしめることになる。やはり、やめておいた方が良い?

 いや、今までいつもこの手の躊躇で、始めるきっかけすら沢山失っているのだ。グダグダ考えず、まず始めて続けること。毎日とかいうと続かないだろうから、せめて週に一つは書いていきたい。誰かに見せるというより、自分の頭に湧いては消えることを整理するという意味でも。かっこつけじゃなく、できるだけ正直に書いていければと思う。

 

平成30年3月26日 深夜

 晴れているはずなのに夜空に星は見えず、月だけが黄色く弱く光っている。街灯はぼうっと輝き、同時に道路標識が妙に目についてくる。車通りの少ないこの時間帯、標識は本来の意味を持て余し、形や色を閑散とした闇の中で主張している。僕はそれを八分咲きの桜越しに眺めていた。桜が咲くのと一緒に、他の多くの花も咲き始めているのを昼間に見たことを思い出し、季節をぼんやりと感じる。と、ふと車が通り過ぎ、ヘッドライトが太い筋状の光線を形作る。街を見渡す。この春の夜に、街は霧に包まれていたのだった。
 また歩き始めて視線を遠くに移すと、ライトアップの終わったスカイツリーが航空灯を回している。輪郭は霧で曖昧にされ、ボヤけた街にUFOの様に浮かんでいる。僕はそれをジッと眺め、夢の中にいる様な感覚に溺れた。そしてこのまま本当の夢まで歩いていければいいのにと、少し眠い頭で思っていた。