再々開その2

 梅や桜の話をしたくなったのは、花を見る度に思い出すことがあるからである。

 高1の3学期の終盤、昼に学校が終わって早く家に帰った日。我が家は団地の3階、午後の安らかな陽光にベランダへ出てみると、眼下の生け垣の梅がキラキラと輝いていた。花弁の薄紅とガクの深紅の対比があまりに綺麗で、思わず写真を1枚撮った。これが大地震の30分前、震災前最後に撮った写真となった。
 

 成人してしばらく経った頃 。祖母の体の具合が悪いとのことで、父と十数年ぶりに大分に帰った。空港からのバスの車窓、山々に点在する桜はどれも満開で、山腹に見事なパッチワーク模様をつくった。滞在中桜はどこも旺盛で、殊に帰りの日、丘上の実家を出て下った坂の途中、Y字路の分岐にあった巨木は、最盛の枝々から凄まじい吹雪を散らし、目を見張るものがあった。祖母の訃報をきいたのは、その半月後のことだった。

 

 鮮烈な花の思い出に、どうしてか胸を締め付けるできごとが紐づく。むしろ悲しい記憶が故に、そのとき見た花の美しさに輪をかけてしまっているのだろうか。これもある種の現実逃避だろうか。きょうび足元に咲くナノハナやカタバミハナニラ、こういう花たちにもいつかの折に、切なさを帯びさせてしまうのだろうか。

 

 それでも毎年、いやが応でも花は咲く。悲しいことを思い出しても、僕は花を好きだと思う。見る度膨らむ妙な心の穏やかさは、あの春火葬場へ向かう道程、滑るように走る霊柩車に揺られたときの気持ちに少し似ていた。悲しみを受け入れたとき、みんなこういう気持ちになるのかなと考える。現世に奔走する人々に、この気持ちを忘れさせぬように…花はそのために咲くんじゃないかと思ったりもする。もしかしたら、花はあっちの世からの贈り物なのではないだろうか。

 

 東京の梅は去った。桜ももうすぐ吹雪を散らすだろう。来年もまた、届けにきて欲しいと思う。この心の穏やかさを忘れないために。