再々開その4

 普遍的にある残酷な現実。それを理解する時期は、自分の場合は小学校1・2年頃だったように思う。死という概念の存在、戦争の事実。知ったときの衝撃は胸に大きな穴を開けた。隙を見せれば今でも顔を出す恐怖、これから先も、この恐怖と連れ立って行くんだ思うとやりきれない。宗教にいう原罪だとか業のいわれはこういうことか、とぼんやりと思う。

 死や戦争と同じか、あるいはそれ以上に愕然としたこと。それはやはり小学校低学年頃、図書館の子ども室で唐突に知らされた。地球にも命の限りがあることである。きっかけは、宇宙図鑑に見開きで示された「太陽の一生」の図解。それは淡々としながら、ひどく禍々しいものだった。右下から右上へ時計回り、数珠つなぎになった大小の太陽たち。現在の黄色な太陽が徐々に膨らみ、やがて何十倍にも大きく赤くなりついには暴発、その後は一転してどんどん収縮し、白い小さな星となるまで。ぶっきらぼうな説明とともに、無機質に、しかし色鮮やかに描かれていて、それは僕を恐怖させるに十分な威力を持っていた。幼心に、地球が無事でないことを察する。図鑑を読み進めると、やはりその旨が書いてあった。「○十億年後、地球は太陽に飲み込まれ無くなります」

 写真をやり始めて、目に映った物象についてあれこれ思うことが格段に増えた。山林の木々の揺れや、生き物たちのさえずり。家々の窓辺にただよう生活の気配や、ビルの夜景の輝き。いちいち物語を綴ったりはできぬとも、それぞれがみんな生きて成り立っているということを、場面場面でヒシと感じることができる。現在進行の生命が目の前に確かにあって、この先もきっと…と思うと、身勝手ながら嬉しく思う。

 しかしこの束の間の喜びの折に、先の恐怖がパンチをかます。みんなやがては無かったも同然になってしまうのだと気づくと、目の前の繁栄それ自体が残酷の塊のように思えてしまう。どうせ丸ごと消え失せる運命に、みんな気づいているはずなのに、どうして平気な顔で過ごせているのだろう。自分たちが生きてるうちはまだ…といえばそれまでだが、それだけで平静を保てるものだろうか。

 いつか見た社会科の便覧で、少子化著しいある国について、「緩やかな衰退を受け入れた国」と説明されていた。自転車に乗った一家が楽しげに笑う写真が、イメージとしてつけられていた。妙にストンと納得できるイメージだった。

 平静について、少し理解できる気がした。