再々々開その2

 生まれたときには、バブルは弾けていた。

 世間の「まだいける」な気分や、遅れてできてくる建築など、余韻は微かにあったらしい。しかし物心つく頃にはもう、みんな夢から醒めていたようだ。肩パッドをいからせた人たちの群れとか、記憶に無い。たまに見かけるリトラのライトの日本車も、まるで映画のタイムマシンのごとく。舟を模したという巨大建築の、目を見張る骨組みたちにも、どこか遺跡を見るような感じを覚える。当時の物事はフィクションのように届いてくる。

 でもみんな全て、本当にあったことなのだ。複雑な骨組みも電飾の床も、確かな質感を持って今もそこにある。幻の和製スーパーカーは、街の小型車たちと同じバッジで走り去る。父母の結婚式のアルバムには、人々がその肩幅を競う合うように、厳ついスーツでずらりと並んで写っている。みな現実にあったことなのだ。

 生まれてからずっと、バブルのような好景気の肌感覚を知ることがなかった。この30年、数字上では色々あったらしいけど、生まれる前のようなトンデモ話は聞かなかった。世の中はえらく冷静、というか株価に関わらずひもじい話ばかりしていた。要因は様々だろうけど、あえてそのようにしていた節もある気がする。

 あの時代のギラギラした世情、そしてその後の長い衰退。人々はある種トラウマ的に捉えたのではないかと、勝手に思っている。多くの人が狂乱の波に乗り、崩れゆく幻想に絶望を覚えた。復活できずにいることを除けば、戦時〜終戦の話と近しい部分があるようにも思われる。戦に負けて希望を見出せないのは、元が空虚な「泡」だからなのだろうか。足がかりのない泡からでは立ち直るすべもないのかもしれない。あるいは、己の身の程を知って諦めの境地に入ったとも。

 色々思うならテメーが頑張れと言われればそれまでであるが、だったら世の中もっと、ウソでも夢を持たせてくれと思ってしまったりもする。でもきっと、ウソでも夢をくれという考えは危ない。世の中はきっとそれで狂ってきたのだ。のせられてしまったのでは元も子もない。

 ここのところ、多様性なんて言葉がずっと言われ続けている。それが本質ならば、世の浮き沈みに関わらず力強く生きていけるのかもしれない。が、裏を返せばそれは自由の究極系とも言える。何かと迷い性分の自分としては、それもまた難しいと思う。

 結局、フワフワした自分を、フワフワした時代に生きてきてしまったのだなと思う。すでにのせられてる部分はあるのかもしれない。未来は泡よりもっと不確かだ。ちまたに垂れ流される早口の音楽を、今日も全く飲み込めない。テレビもブラウザもぴしゃりと閉じて、モヤがかる明日をぼんやりと思い浮かべる。

再々々開その1

 職場と、職場の最寄駅との間に、幅数十メートルの川がある。仕事の行き帰りで毎度、橋から水面を眺めるのだが、いつも風にさざめくだけで流れがない。水門のおかげということらしい。岸辺も整地されつつ草木が残されており、人為的ながら都会のオアシスといった具合である。橋上の車の騒がしさと真反対のこの景色は、ついついうっ積してしまう気持ちを洗うには良いものであった。

 シンとした水面に何か変化があると、その描写がいちいち心に刻まれる。不意を突くように魚が跳ねてバシャンと音がする、水鳥が足漕ぎして小波が両岸に届く…特に印象深いのは、舟が現れたときだった。

 朝もやの日、小さな動力船が、細長い舟を曳いてやってきた。それぞれにオジサンがひとりずついて、進む先を見るともなく見ている。短い川で、且つ前述の水門があるから行き着く先は知れたものなのだが、歩くと同じスピードゆえか、あるいは時間の流れ方が違うのか、このままどこまでもいってしまいそうな、悠々とした舵取りだった。エンジンがついていないかのような、音の無い静かな滑走であった。

 別の日は薄暮の頃、今度はボートが1チームやってきた。チームは女子5人。手前4人が後ろ向きでボートを漕いで、一番奥の1人が漕ぎ手を向いて指揮をとっている。記憶にかすかなゼッケンの紺…通っていた高校のボート部らしかった。強いという噂を聞いていたが、彼女らの挙動はどうものんびりとしている。指揮が何を言ったのか、皆パタと漕ぐのをやめた。舟は惰性でゆっくり流れ、そしてそのまま、橋の下へ見えなくなってしまった。声は何も聞こえなかった。

 目下十何メートルかの距離でも、地に足つく橋上と、形のない水上とでは、まるでパラレルワールドであるかのように感じた。街を行き交う人々と同じはずだけど、違う種族の人間のような気がした。とらえどころのないシーン、とらえどころのない水。つむぎようのないような諸々を意識に留めていくのは、大事なことではないかと思う。実はつむぎようがあることをしっかり理解できるまで、諸々のことをこれからも、足を止めつつ見ていきたい。

 

再々開その4

 普遍的にある残酷な現実。それを理解する時期は、自分の場合は小学校1・2年頃だったように思う。死という概念の存在、戦争の事実。知ったときの衝撃は胸に大きな穴を開けた。隙を見せれば今でも顔を出す恐怖、これから先も、この恐怖と連れ立って行くんだ思うとやりきれない。宗教にいう原罪だとか業のいわれはこういうことか、とぼんやりと思う。

 死や戦争と同じか、あるいはそれ以上に愕然としたこと。それはやはり小学校低学年頃、図書館の子ども室で唐突に知らされた。地球にも命の限りがあることである。きっかけは、宇宙図鑑に見開きで示された「太陽の一生」の図解。それは淡々としながら、ひどく禍々しいものだった。右下から右上へ時計回り、数珠つなぎになった大小の太陽たち。現在の黄色な太陽が徐々に膨らみ、やがて何十倍にも大きく赤くなりついには暴発、その後は一転してどんどん収縮し、白い小さな星となるまで。ぶっきらぼうな説明とともに、無機質に、しかし色鮮やかに描かれていて、それは僕を恐怖させるに十分な威力を持っていた。幼心に、地球が無事でないことを察する。図鑑を読み進めると、やはりその旨が書いてあった。「○十億年後、地球は太陽に飲み込まれ無くなります」

 写真をやり始めて、目に映った物象についてあれこれ思うことが格段に増えた。山林の木々の揺れや、生き物たちのさえずり。家々の窓辺にただよう生活の気配や、ビルの夜景の輝き。いちいち物語を綴ったりはできぬとも、それぞれがみんな生きて成り立っているということを、場面場面でヒシと感じることができる。現在進行の生命が目の前に確かにあって、この先もきっと…と思うと、身勝手ながら嬉しく思う。

 しかしこの束の間の喜びの折に、先の恐怖がパンチをかます。みんなやがては無かったも同然になってしまうのだと気づくと、目の前の繁栄それ自体が残酷の塊のように思えてしまう。どうせ丸ごと消え失せる運命に、みんな気づいているはずなのに、どうして平気な顔で過ごせているのだろう。自分たちが生きてるうちはまだ…といえばそれまでだが、それだけで平静を保てるものだろうか。

 いつか見た社会科の便覧で、少子化著しいある国について、「緩やかな衰退を受け入れた国」と説明されていた。自転車に乗った一家が楽しげに笑う写真が、イメージとしてつけられていた。妙にストンと納得できるイメージだった。

 平静について、少し理解できる気がした。

 

 

再々開その3

 ゆうパックの内勤バイトをしていた頃。集配員の中に虚言を吐く人がいた。高倉健とタメ張れる人がこんなところで2トン車転がしてる訳がない。そう思いつつ、嘘でもそんな話を聞けるのは面白いなと思った。

 そのオジサンは、言うなれば孤高の人…つまり周りから煙たがれている人だった。皆がやっているこまごました小口集配はほとんどせず、2トン車でドカッと運ぶ仕事を、ほぼ自分の領分としていた。後処理を手こずっている気弱な内勤にはときどき怒鳴った。ナヨナヨした自分もやはり怒鳴られ…と思いきや、どういう訳か結構気に入られていた。

 ときには上長の許可も得ずに、集配に連れ出されることもあった。後付けの理由が無い訳にもいかないので、ほんの少し荷上げを手伝わされた。物量が少ないときは、橋の側道に車を止めてサボった。色んな話を聞いた。韓国人の奥さんのこと、「娘」と呼んでいる犬のこと。トラックの前にずっと停車しているミニバンを指差して、「あれ中で絶対ヤってるぜ」と、笑わせられたりもした。ダイアーストレイツ、ジャコパストリアス、僕がハマりこむことは無かったけれど、今も街やテレビからときどき聞こえてきては、あ、と思う。オジサンは僕に色んな愉快を分けてくれたのだった。

 スピッツの「青い車」が好きだと言ったことがきっかけで、バンドをしてみようよという話が出た。初めてのヤフオク、3万でベースを競り落として、家でまずひとり練習をした。ギターもやってみるといいと、電装部をゴッソリ抜かれたギターを渡された。なんでちゃんとしたの貸してくれないんだろうと思いつつも、嬉しがって受け取った。

 しかし結局、合わせるタイミングを掴めないうちに、僕は「青い車」を覚えたきりベースを触るのをやめてしまった。仮にも写真をやっているはずが、なんだか写真そっちのけでうつつを抜かしているように思われて、自分が自分にバツが悪くなってしまったのだった(その割には、今もたいして写真をできていないし、しょうもない文章を書いている)。オジサンに進捗を聞かれても笑ってごまかすようになった。笑いながら、ひどく申し訳なく思った。

 やがてオジサンは、「もらい事故」にて「負傷」とのことで、局に来なくなった。他の集配員は皆苦笑いだった。その後オジサンはときどき総務部に連絡をよこして、雇用契約や保険のあれやこれや、担当のお姉さんを困らせたそうである。お姉さんを気の毒に思いながら、正直少し笑えてくる心持ちもした。

 しばらくして僕も局を辞めた。辞めたと言っても、局は家の目と鼻の先なので、集配員とはしょっちゅう道ですれ違う。皆仲良くしていた間柄、郵便車に会釈すれば、合図を返してくれる。声をかけてくれることだってある。幸せに思うし、戻りたいぁとさえ思う。

 でも戻ってみてもオジサンはいない。ましてや道ですれ違うなんてもっとない。まさかオジサンを慕う心なんてある訳なし、寂しいというのも違うけれど、ここにひとり足りないなと、局の2トン車をフェンス越しに見ながら思う。うちのダイニングには今も、ホコリをかぶったベースと偽りのエレキギターが、捨てられずにほっぽってある。たった一曲覚えたベースラインを、ときどきフンフン口ずさむ。

再々開その2

 梅や桜の話をしたくなったのは、花を見る度に思い出すことがあるからである。

 高1の3学期の終盤、昼に学校が終わって早く家に帰った日。我が家は団地の3階、午後の安らかな陽光にベランダへ出てみると、眼下の生け垣の梅がキラキラと輝いていた。花弁の薄紅とガクの深紅の対比があまりに綺麗で、思わず写真を1枚撮った。これが大地震の30分前、震災前最後に撮った写真となった。
 

 成人してしばらく経った頃 。祖母の体の具合が悪いとのことで、父と十数年ぶりに大分に帰った。空港からのバスの車窓、山々に点在する桜はどれも満開で、山腹に見事なパッチワーク模様をつくった。滞在中桜はどこも旺盛で、殊に帰りの日、丘上の実家を出て下った坂の途中、Y字路の分岐にあった巨木は、最盛の枝々から凄まじい吹雪を散らし、目を見張るものがあった。祖母の訃報をきいたのは、その半月後のことだった。

 

 鮮烈な花の思い出に、どうしてか胸を締め付けるできごとが紐づく。むしろ悲しい記憶が故に、そのとき見た花の美しさに輪をかけてしまっているのだろうか。これもある種の現実逃避だろうか。きょうび足元に咲くナノハナやカタバミハナニラ、こういう花たちにもいつかの折に、切なさを帯びさせてしまうのだろうか。

 

 それでも毎年、いやが応でも花は咲く。悲しいことを思い出しても、僕は花を好きだと思う。見る度膨らむ妙な心の穏やかさは、あの春火葬場へ向かう道程、滑るように走る霊柩車に揺られたときの気持ちに少し似ていた。悲しみを受け入れたとき、みんなこういう気持ちになるのかなと考える。現世に奔走する人々に、この気持ちを忘れさせぬように…花はそのために咲くんじゃないかと思ったりもする。もしかしたら、花はあっちの世からの贈り物なのではないだろうか。

 

 東京の梅は去った。桜ももうすぐ吹雪を散らすだろう。来年もまた、届けにきて欲しいと思う。この心の穏やかさを忘れないために。

 

 

 

 

再々開その1

 やはりと言うべきか。自分の三日坊主癖は相当なもののようで、呆れを超して、もう笑うしかないというレベルである…

 しかし、それは元々わかりきっていたこと。三日坊主をして、その後どうしていくかが問題である。このまままた何ヶ月も何年も放っておくのか?

 折角また少し気持ちが起きてきているのである。この少しの気持ち、取っ掛かりを、僕は逃してはいけないと思う。

 一週間に一回と宣言したことが、実のところしんどかったのだろうから。頻度の設定はご法度ということにしておく。書けると思えば書けば良い。それがヨタヨタと続けられれば、御の字である。

 

再開その4

 大型電気量販店にある時計売り場が好きである。特に掛け時計や置き時計のコーナーは格別だ。突き詰めたシンプルさや、あるいは生活を邪魔しない程度の装飾を施した時計たちが、買われた後は徐々に失っていくであろう自己主張をこの場では大いに発揮して、僕の視界いっぱいにそれぞれ訴えかけてくる。この強烈なアピール感は、個人商店や専門店の最低限丁重に扱われた時計たちには感じられず、量販店の雑多で且つ供給過多とも言える投げやりな展示の中でのみ見られる独特なものだった。そのひとつひとつの必死さのようなもの、そしてそれらが集結して現れたその場全体のパワーに、僕はいつも立ちすくむ程に圧倒されるのである。

 ことさらに、この独特なパワーには周期的なハイライトが必ず訪れる。自分の立ち寄ったタイミングが合えば、僕はその時が行き過ぎるのをわざわざ見届けるくらいである。「その時」の1分程前、端々で先走った時計たちがか細い音楽を奏で始める。それらが途切れてしまわぬうちに、時を迎えた時計がひとつ、またひとつと増えてゆき、音を被せていく。初めは聞き分けができていた音色は段々と秩序や個別性を失い、ハイライトの前後それぞれ10秒程、大箱いっぱいの荷物をひっくり返したようにドッと押し寄せてくる。見渡せばあちこちで、カッコウが飛び出す、兵隊がラッパを吹く、文字盤は幾つかに割れたりグルグル回ったり、LEDはまばゆく光り、もはやこれは時計売り場という範疇を超えている、そう思えるほどである。しかし狂宴は長くは続かず少しずつ脱落してゆき、1分程過ぎれば、辞め時を誤ったいくつかの時計が場違いに騒ぎ立てるに留まる。それもいい加減にと騒ぎを止めれば、場は何事もなかったかのように針の音だけがするばかり、すまし顔の時計たちが並ぶばかりとなる…

 しかしそのすまし顔には、やはり必死さがにじみ出ているのだ。その妙な意思のある感じに僕はなんだか嬉しくなって、満足して帰るのである。